沖縄旅行5 ~ ひめゆりの塔 ~ - 2015.03.07 Sat
ひめゆりの塔は沖縄戦を語る上で
必ず出てくる場所だと思うので、知っている人も多いと思いますが、
私も一度は見ておきたい場所だったので、行ってきました。
アクセス
場所は、糸満市にあるのですが、交通が非常に不便なところにある為、
那覇市や空港からは、バスを乗り継ぐかタクシー、レンタカーもしくは
バス会社から出ているツアーを利用すると良いと思います。
交通アクセス: http://www.okitour.net/sightseeing/tatsujin/00167/
概要
昭和21(1946)年4月7日序幕、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。

ひめゆりというのは、元は「姫百合学徒隊」で、
沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の生徒だったそうです。
ちなみに、沖縄県立第一女学校の校誌名が「乙姫」、沖縄師範学校女子部の校誌名が「白百合」で
組み合わせて「姫百合」だったそうですが、戦後にひらがなで記載されるようになったとの事。
第三外科壕は、ひめゆりの塔のすぐ横にありますが、本当に小さな防空壕というか洞穴に近いものであったことに非常にビックリしました。
中は9mの深さで、畳100枚分の広さがあったとの事ですが、
岩でごつごつした穴の中で、病棟としての役割をきちんと果たせていたのか、
実物をみて非常に思うものがありました。

またアメリカ軍の攻撃や自決により多数の生徒が亡くなっており、生き残りはたったの5名だったそうです。
行く前にそれほど、事前情報を調べて行かなかったのですが、実際はだいぶイメージと違っていました。
塔とつくので、大きな建物かと思っていたのですが、非常にひっそりとしたもので
それが返って戦争やひめゆり学徒隊の悲惨さを感じさせるものだった気がします。
また敷地内には「ひめゆり平和祈念資料館」や、他の慰霊碑もありました。
経緯
この第三外科壕は非常に衝撃的だったのですが、ここに至る前は、沖縄陸軍病院におり、
昭和20(1945)年3月24日から、姫百合部隊の女子生徒と職員総計240名(教師18名・生徒222名)が、
南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍したそうです。
沖縄本島に4月1日にアメリカ軍が上陸してからは、日々激しい戦闘が続き、
5月25日に南部の地下壕に撤退、ほぼその頃には病院としての機能は失われていたとの事。
6月18日には戦局がほぼ絶望的となり、姫百合学徒隊は看護婦採用試験合格者を除き解散となったものの、
その頃には、日々地上は激しい砲撃にあっており、地上に出れる状態になかったとのこと。
第一外科壕、第二外科壕もあったが、アメリカ軍の攻撃の前、19日までに地下壕から脱出していた為に、
甚大な被害を被ることはなかったものの、結局は地上や一部第三外科壕に非難した生徒や職員はそこで多くが亡くなっている。
ひめゆりの塔の横にある、第三外科壕が最も被害を受けており、
19日朝、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、生き残ったのは5名(ひめゆり学徒隊の生徒が4名、軍医が1名)だったとの事。
職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名で、
このうち解散命令以後に死亡したのは全体の86%、117名であったといわれ、
また全体の35%にあたる47名は第三外科壕に攻撃があった6月19日に亡くなっているとの事。
戦後、戦死した生徒の親である金城和信らによって壕が発見され、遺骨が集められ、4月に慰霊碑が建てられたとの事。

ひめゆり平和祈念資料館
ひめゆりの塔の奥に、平和記念資料館があります。
中には「ゆめゆり学徒隊」の歴史や、様々な資料をはじめ、第三外科壕を下から見たジオラマや
なくなった生徒さんたち、職員の方々1人1人の写真やエピソードも展示されています。
また生き残った方々の当時の証言のビデオも流れていました。
胸が苦しくなる内容が多く、改めて戦争の悲惨さを感じますが、
きちんと自分の目で見てよかったなと思います。
献花
慰霊塔の前に献花台があるので、お参りする場合は、入り口に献花が200円で販売されています。
食事
ちかくに駐車場やおみやげもある「ひめゆり会館」という所があり、沖縄らしい食事もありました。
メニュー: http://www.himeyuri.co.jp/3/

その他
知らなかったことですが、ひめゆりの塔に行って知ったことです。
ひめゆりの塔事件
沖縄返還後の昭和50(1975)年7月17日に、
現在の天皇陛下が皇太子、当時皇太子妃であった美智子さまが皇族による第二次大戦後初の沖縄訪問をした時、
怪我はなかったものの過激派により火炎瓶が足元に投げつけられた事件があったとの事。
島唄
THE BOOMの曲で、昔非常に流行ったのを覚えていますが、
作詞・作曲をしたボーカルの宮沢和史さんは沖縄戦やひめゆり学徒隊の話を聞いたことで
この曲を作ったそうです。
当時は中学生くらいだったので、本島の意味はわかっていませんでしたが、
ひめゆりの塔に行って改めて聴き、非常にこみ上げてくるものがありました。
詳しい歌詞やまとめについては下記参照。
http://matome.naver.jp/odai/2137646585772178801
フェアリー
売り上げランキング: 870,084
必ず出てくる場所だと思うので、知っている人も多いと思いますが、
私も一度は見ておきたい場所だったので、行ってきました。
アクセス
場所は、糸満市にあるのですが、交通が非常に不便なところにある為、
那覇市や空港からは、バスを乗り継ぐかタクシー、レンタカーもしくは
バス会社から出ているツアーを利用すると良いと思います。
交通アクセス: http://www.okitour.net/sightseeing/tatsujin/00167/
概要
昭和21(1946)年4月7日序幕、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。

ひめゆりというのは、元は「姫百合学徒隊」で、
沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の生徒だったそうです。
ちなみに、沖縄県立第一女学校の校誌名が「乙姫」、沖縄師範学校女子部の校誌名が「白百合」で
組み合わせて「姫百合」だったそうですが、戦後にひらがなで記載されるようになったとの事。
第三外科壕は、ひめゆりの塔のすぐ横にありますが、本当に小さな防空壕というか洞穴に近いものであったことに非常にビックリしました。
中は9mの深さで、畳100枚分の広さがあったとの事ですが、
岩でごつごつした穴の中で、病棟としての役割をきちんと果たせていたのか、
実物をみて非常に思うものがありました。

またアメリカ軍の攻撃や自決により多数の生徒が亡くなっており、生き残りはたったの5名だったそうです。
行く前にそれほど、事前情報を調べて行かなかったのですが、実際はだいぶイメージと違っていました。
塔とつくので、大きな建物かと思っていたのですが、非常にひっそりとしたもので
それが返って戦争やひめゆり学徒隊の悲惨さを感じさせるものだった気がします。
また敷地内には「ひめゆり平和祈念資料館」や、他の慰霊碑もありました。
経緯
この第三外科壕は非常に衝撃的だったのですが、ここに至る前は、沖縄陸軍病院におり、
昭和20(1945)年3月24日から、姫百合部隊の女子生徒と職員総計240名(教師18名・生徒222名)が、
南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍したそうです。
沖縄本島に4月1日にアメリカ軍が上陸してからは、日々激しい戦闘が続き、
5月25日に南部の地下壕に撤退、ほぼその頃には病院としての機能は失われていたとの事。
6月18日には戦局がほぼ絶望的となり、姫百合学徒隊は看護婦採用試験合格者を除き解散となったものの、
その頃には、日々地上は激しい砲撃にあっており、地上に出れる状態になかったとのこと。
第一外科壕、第二外科壕もあったが、アメリカ軍の攻撃の前、19日までに地下壕から脱出していた為に、
甚大な被害を被ることはなかったものの、結局は地上や一部第三外科壕に非難した生徒や職員はそこで多くが亡くなっている。
ひめゆりの塔の横にある、第三外科壕が最も被害を受けており、
19日朝、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、生き残ったのは5名(ひめゆり学徒隊の生徒が4名、軍医が1名)だったとの事。
職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名で、
このうち解散命令以後に死亡したのは全体の86%、117名であったといわれ、
また全体の35%にあたる47名は第三外科壕に攻撃があった6月19日に亡くなっているとの事。
戦後、戦死した生徒の親である金城和信らによって壕が発見され、遺骨が集められ、4月に慰霊碑が建てられたとの事。

ひめゆり平和祈念資料館
ひめゆりの塔の奥に、平和記念資料館があります。
中には「ゆめゆり学徒隊」の歴史や、様々な資料をはじめ、第三外科壕を下から見たジオラマや
なくなった生徒さんたち、職員の方々1人1人の写真やエピソードも展示されています。
また生き残った方々の当時の証言のビデオも流れていました。
胸が苦しくなる内容が多く、改めて戦争の悲惨さを感じますが、
きちんと自分の目で見てよかったなと思います。
献花
慰霊塔の前に献花台があるので、お参りする場合は、入り口に献花が200円で販売されています。
食事
ちかくに駐車場やおみやげもある「ひめゆり会館」という所があり、沖縄らしい食事もありました。
メニュー: http://www.himeyuri.co.jp/3/

その他
知らなかったことですが、ひめゆりの塔に行って知ったことです。
ひめゆりの塔事件
沖縄返還後の昭和50(1975)年7月17日に、
現在の天皇陛下が皇太子、当時皇太子妃であった美智子さまが皇族による第二次大戦後初の沖縄訪問をした時、
怪我はなかったものの過激派により火炎瓶が足元に投げつけられた事件があったとの事。
島唄
THE BOOMの曲で、昔非常に流行ったのを覚えていますが、
作詞・作曲をしたボーカルの宮沢和史さんは沖縄戦やひめゆり学徒隊の話を聞いたことで
この曲を作ったそうです。
当時は中学生くらいだったので、本島の意味はわかっていませんでしたが、
ひめゆりの塔に行って改めて聴き、非常にこみ上げてくるものがありました。
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